浄土宗 不軽山 荘厳院 香仙寺

直牒洞

直牒洞

浄土宗第七祖聖冏上人は、上杉禅宗の乱(佐竹義秀の乱)の折、常福寺より直牒洞(じきてつどう)に入り、参考文献もないなか、硯には山よりしみ出る水を使って、決疑鈔直牒十巻等を撰しました。上人は飢渇をしのぐ為に柿の実やシイの実を食され、書物をお書きになられたそうです。また直牒洞は当時、常陸阿弥陀三窟と呼ばれていましたが、これより決疑鈔直牒の直牒をとり、直牒洞と呼ばれています。


洞内は、昼も薄暗いです。
金砂郷の民話のなかに、
〔阿弥陀山窟にひとりの僧侶が、修行に入っていました。近くの民家の人々は、得体のしれない者として、近寄りませんでした。ある日、子供たちが、この場所に近づくと、洞の中が明るくなっていたそうです。恐る恐るちかづくと、なかにいる僧侶の額から光が放たれ、手元を照らしていたそうです。この僧侶こそ二十六夜尊聖冏上人だったのです。〕

聖冏上人の絵伝のなかには、たくさんの不思議な伝記があります。
それは上人の、人柄や残された功績の大きさを、表しているのではないでしょうか。

*ちなみに、八百屋お七のお話の中に、お七の霊を慰めたのも、
聖冏上人だそうです?*
中央内部

調査中

現在、測量等の調査をした結果
入口から壁面  約12m
窟内      約5.6m
幅最大     約4m
高さ      約3m

右側面 左側面 どちらにも多くの五輪塔が彫られている。
おそらく鎌倉時代に彫られてものと推測される

正面阿弥陀三尊は平安時代の作と思われる(調査が必要)

洞内は、現在三段になっているが、形跡から、後から一段彫り今の形にしているようである

おそらく横穴墓の転用と考えられるが、あまりにも規模が大きすぎるのでこちらも調査が必要と思われる。

横穴墓の転用であれば、時代はどこになるのか、皆目見当がつかないが、近隣に飛鳥時代の横穴群や、古墳が数多く出土していることから、飛鳥時代後期には、この地域には、大きな都市が存在していた可能性は考えられる。
また、平安時代に三尊を彫られていることから、阿弥陀信仰・浄土信仰は、この時代に定着していったものと考えられる。奥州藤原の浄土信仰を考えると、北関東にも浄土信仰が定着していてもおかしくはないと思う。
また、鎌倉時代戦乱の世の中で、菩提を弔うために洞内に、五輪塔を彫って菩提を弔うといったことも浄土に対する想いがあったからだろう。専門の調査の方々の見解を待ちたいとおもう。

しかしながら、この古い遺跡が現存していることは、奇跡に近いものがある。
当時の権力者や地域の人々の想いがなければ、おそらく残ってはいなかっただろう。伝えてきた人々を想うと感慨深い気持ちになる。
右側面
左側面
中央弥陀三尊

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